ジャンプ45〜新年02号まで、10週読み終わったので気になった点を。
◆地の文
なんと呼んでいいのか分からないので、小説で言うところの地の文と呼びますが、あれが気になる。2ちゃんの週間少年板でもスレが立ってるくらいなので、ほかにも違和感を持ってる人はいるみたいだ。最初に言うと自分はこの演出が嫌いで、なぜ冨樫先生がこれを多用するようになったのか解らない。解らないけど考えてみた。まず嫌いな理由を言うと自分の中で漫画は『キャラクターの表情やセリフ』からそのときの心情や置かれてる状況を想像することが漫画の楽しみの一つにあると思っているからだ。それは現代漫画の祖、手塚治虫が映画から現代漫画の構造を作ったことからも、スタンダードな楽しみ方なのではないかなと思う。映画でずっとナレーションが喋ってる事はあんまり無いと思うし。ただ映画でも、ドキュメンタリー調の映画でナレーションをずっと使用してるものでおもしろいものもあるし、手塚先生の漫画でも地の文のような描き方の漫画はあるし、現代の漫画でも地の文を使ってておもしろい漫画もある。つまりこの地の文を使った演出はそれ自体よりも、地の分を使うことで心情まで語ってしまう『語りすぎ』、『情報過多』が違和感を生んでるんじゃないかと思う。シーンによってはぴたりとハマる地の文もあったし。H×Hでは連載再開(具体的には46号・第262話ラスト、つまり宮殿突入から)するまではこういう描き方ではなかったし(ヒソカの念能力の説明などで使用することはあったけど)本来はスタンダードな、読者にある程度想像の余地を残す漫画だったと思う、このことが違和感になっているんじゃないだろうか。ちなみに『想像の余地』の具体例を出すと、第263話の龍星群で降下してきたゼノと、ピトーの円が触れたとき「互いに力量を察知する」という地の文が書かれてるけど、念が触れる画と、顔を見合わせお互いに「にやり」とする表情があれば地の文がなくても十分に伝わる。第266話でも宮殿に突入したキルアがピトーの円が感じられず、目の前にユピーがいるというありえない場面に直面しても、冷静さを失わないことを地の文を使って書かれてるけど、「やっぱりな、ありえないことが起きた」みたいなモノローグを入れるだけで十分に思う。
◆地の文を使う理由
ここまで地の文が不要だと思う理由を書きましたがここからはなぜ冨樫先生が地の文を使うのか考察、最初に書いたように答えは出てないですが。まず『時間説』。48号の作者近況で「夏の努力が無駄になる」と仰られてますが、ここから読み取れるのは休載してから07年の夏までほぼ執筆作業を行っていないという事(構想はされていたでしょうが)さらに「これを乗り越えなきゃ」とも仰られているので連載再開してからも執筆作業は続いていたという事になります(10週ストックがあって連載再開したのではないということ、編集部の姿勢に驚き)つまり、画やセリフで見せるほどの時間と体力が足りなかったのではないかという仮説。ただ冨樫先生は幽遊白書やレベルEなどいくつも連載を持ったことがある方なので、絵とは違い、後でどうにもならないような妥協をするようなレベルの技術だとは思えないので、可能性は薄そうですが。もう一つは『演出説』。読んでると気付くんですが所々にタイムカウンターが描かれてます。これを見ると宮殿に突入してから10秒(!)も経っていないことが判ります。この短い時間のなかだとモノローグはともかく会話など成り立たないでしょう。それは第264話の中でネテロと向かい合ったピトーが会話を交わした際、ゼノの回想という形で2ページに渡って「死の瞬間の時間の伸縮」として語られているくらい異常な状態として描かれています。なのでこの短い時間の中で、しかも王、護衛軍、討伐軍という複数の視点から描く場合、どうしても会話が足りず掘り下げ不足になる、だからこの地の文を使うことでフォローを入れようと冨樫先生は考えたのではないだろうか?
色々説はあると思いますが自分の中ではこの二つが有力です。漫画の地の文が嫌いな自分ですが、妥協した『時間説』よりも先生が納得している『演出説』であることを願ってます。他にも理系のナックルとかネテロの音速の壁とか色々書こうかと思ったんですが長すぎなので割愛。読んでくれた人ありがとうございます。先生の「近くまた戻ってまいります。なるべく早く帰って来ます。頑張ります」って言葉を信じて連載再再開待ってようZEヾ(`Д´)ノ
◆地の文
なんと呼んでいいのか分からないので、小説で言うところの地の文と呼びますが、あれが気になる。2ちゃんの週間少年板でもスレが立ってるくらいなので、ほかにも違和感を持ってる人はいるみたいだ。最初に言うと自分はこの演出が嫌いで、なぜ冨樫先生がこれを多用するようになったのか解らない。解らないけど考えてみた。まず嫌いな理由を言うと自分の中で漫画は『キャラクターの表情やセリフ』からそのときの心情や置かれてる状況を想像することが漫画の楽しみの一つにあると思っているからだ。それは現代漫画の祖、手塚治虫が映画から現代漫画の構造を作ったことからも、スタンダードな楽しみ方なのではないかなと思う。映画でずっとナレーションが喋ってる事はあんまり無いと思うし。ただ映画でも、ドキュメンタリー調の映画でナレーションをずっと使用してるものでおもしろいものもあるし、手塚先生の漫画でも地の文のような描き方の漫画はあるし、現代の漫画でも地の文を使ってておもしろい漫画もある。つまりこの地の文を使った演出はそれ自体よりも、地の分を使うことで心情まで語ってしまう『語りすぎ』、『情報過多』が違和感を生んでるんじゃないかと思う。シーンによってはぴたりとハマる地の文もあったし。H×Hでは連載再開(具体的には46号・第262話ラスト、つまり宮殿突入から)するまではこういう描き方ではなかったし(ヒソカの念能力の説明などで使用することはあったけど)本来はスタンダードな、読者にある程度想像の余地を残す漫画だったと思う、このことが違和感になっているんじゃないだろうか。ちなみに『想像の余地』の具体例を出すと、第263話の龍星群で降下してきたゼノと、ピトーの円が触れたとき「互いに力量を察知する」という地の文が書かれてるけど、念が触れる画と、顔を見合わせお互いに「にやり」とする表情があれば地の文がなくても十分に伝わる。第266話でも宮殿に突入したキルアがピトーの円が感じられず、目の前にユピーがいるというありえない場面に直面しても、冷静さを失わないことを地の文を使って書かれてるけど、「やっぱりな、ありえないことが起きた」みたいなモノローグを入れるだけで十分に思う。
◆地の文を使う理由
ここまで地の文が不要だと思う理由を書きましたがここからはなぜ冨樫先生が地の文を使うのか考察、最初に書いたように答えは出てないですが。まず『時間説』。48号の作者近況で「夏の努力が無駄になる」と仰られてますが、ここから読み取れるのは休載してから07年の夏までほぼ執筆作業を行っていないという事(構想はされていたでしょうが)さらに「これを乗り越えなきゃ」とも仰られているので連載再開してからも執筆作業は続いていたという事になります(10週ストックがあって連載再開したのではないということ、編集部の姿勢に驚き)つまり、画やセリフで見せるほどの時間と体力が足りなかったのではないかという仮説。ただ冨樫先生は幽遊白書やレベルEなどいくつも連載を持ったことがある方なので、絵とは違い、後でどうにもならないような妥協をするようなレベルの技術だとは思えないので、可能性は薄そうですが。もう一つは『演出説』。読んでると気付くんですが所々にタイムカウンターが描かれてます。これを見ると宮殿に突入してから10秒(!)も経っていないことが判ります。この短い時間のなかだとモノローグはともかく会話など成り立たないでしょう。それは第264話の中でネテロと向かい合ったピトーが会話を交わした際、ゼノの回想という形で2ページに渡って「死の瞬間の時間の伸縮」として語られているくらい異常な状態として描かれています。なのでこの短い時間の中で、しかも王、護衛軍、討伐軍という複数の視点から描く場合、どうしても会話が足りず掘り下げ不足になる、だからこの地の文を使うことでフォローを入れようと冨樫先生は考えたのではないだろうか?
色々説はあると思いますが自分の中ではこの二つが有力です。漫画の地の文が嫌いな自分ですが、妥協した『時間説』よりも先生が納得している『演出説』であることを願ってます。他にも理系のナックルとかネテロの音速の壁とか色々書こうかと思ったんですが長すぎなので割愛。読んでくれた人ありがとうございます。先生の「近くまた戻ってまいります。なるべく早く帰って来ます。頑張ります」って言葉を信じて連載再再開待ってようZEヾ(`Д´)ノ